David Blackwell, 1919-2010


Blackwellが亡くなったとのこと。ノーベル経済学賞を経済学者以外にも授与するとしたら真っ先に名前の挙がるうちの一人だったろう。


NYタイムスの訃報はここ。ネイマンがバークレーで彼を雇おうとしたところ彼が黒人であるためすぐには話が進まなかったという話は確かサルツブルグの本にも出ていたはず。しかしその後彼が白人の大学に就職するのをあきらめて、黒人のカレッジばかり100数校にApplicationを出したという話は知らなかった。


ところで、信じられないのだが、彼は計量経済学会(Econometric Society)のFellowに選ばれていない。アメリカの計量経済学会は経済理論と計量経済学の頂点にある学会で、そのFellowになるには他薦によるしかなく、2人か3人のFellowの推薦が必要になる。もう近年は経済学の人とは交流がなかったのかもしれないが、彼はとっくにFellowになっているべきであった。

 またまた帽子のパズル


一列に並んでいる無限の人に赤か青かどちらかの帽子がかぶせられているのを想像してほしい。それぞれの人は、自分の帽子の色を知ることはできないが、他の人の帽子の色をすべて知っているとする。それぞれの人の帽子の色はコインを投げてランダムに決められ、赤あるいは青になる確率はちょうど半々である。

理不尽なことだが、この人たちは自分の帽子の色を当てれば助かるが、はずしたら殺されてしまうとする。さて、すべての人が同時に自分の帽子の色を答えるとしたときに、たかだか有限の数の人しか死なないようにする方法はあるだろうか?


こういう方法を考えてみよう。その中からどの2つの帽子の並び方をとっても帽子の色が違う人が有限の数しかいないような帽子の並び方をすべて集めたグループを考える。たとえばたかだか有限の数の人以外は青い帽子をかぶっているという組み合わせをすべて考えれば、それはひとつのグループになる。すると、赤と青の帽子のすべての可能な順序を別々の(無限に存在する)グループに分解することができる。

さて、それぞれのグループからひとつづつ帽子の並べ方を選んでそれをそのグループの代表と考えることにしよう。で、次のような戦略を考える: 

各人は、自分以外の他の人の帽子を見て実際の帽子の並び方がどのグループに属するか判断して、そのグループを代表する並び方を選ぶ。

すると不思議なことに、有限の人数の人以外は自分の帽子の色を当てることができる。なぜなら全ての人が正しいグループを選択するし、実際の帽子の並び方とグループの代表の並び方にはグループの定義より有限個の違いしかないからだ。


追記:ここで悪さをしているのは選択公理です。

日本人の米国留学


日本人の米国留学10年で4割減少


日本人に関しては企業派遣の留学が結構な割合を占めてたわけでしょう。学部留学は昔から少なかったはずです。で、企業がお金を払う余裕がなくなったから、だんだんと留学生の数が減ってきたということだと思います。


ほかには他のアジアの国々から(中国、韓国、インドなど)留学している優秀な学生の数がどんどん増えているということがあって、ぶっちゃけていえばそこで競争に負けちゃっているということですね。アジア人枠みたいなのがあれば、この要因は特に大きいでしょう。

 近況


最近は忙しくてブログはご無沙汰だった。先日カンファレンスをオーガナイズする仕事があったのだが、慣れないせいか意外と時間をとられてしまった。参加する側からするとちょうどいい感じの中規模のカンファレンスなのだが、オーガナイズする側からするとこれぐらいがちょうど面倒くさい。もうちょっと小さければ雑事は少なくなるし、もうちょっと大きければより多くの仕事を事務の人に全部丸投げするのが効率的になるのになー(あるいは丸投げする口実ができる)、などと考える。


ところで風のうわさで恩師の退任記念講演が行われると聞いたのだが、それがちょうど自分の日本の短期滞在と重なっていることに気がついた。先生やゼミ生の方々に久方ぶりにお目にかかるのが楽しみである。

 アバター以前とアバター以後


いや凄かった。この先10年を決定する映画ですねこれは。いくつか断片的に思ったことを少し。


話やテーマは使い回しだけど、その組み合わせは新しい

基本的なアバターのストーリーは、原住民と侵略者の対立、アメリカ的に言えばネイティブ・アメリカンアメリカ移民の対立をめぐる話がベースになっていて、一部の良心的な人間が原住民側にたって搾取する人間と戦うという、いわゆる白人罪滅ぼし系の話である。そのため、パンドラの原住民(ナヴィ)のイメージはネイティブ・アメリカンとアフリカの民族が混ざったようなものになっている。

一方で作品を通呈するテーマとしては、現実の自分の体や世界が不完全である(リアリティーがない)という半ば強迫観念にも似た感覚と、もう一つの別の完全な世界*1を求める衝動がベースになっている。この不完全性は、ジェイクが下半身不随であり、そしてアバター(分身の体)を得たとたん走り出すシーンにすでに象徴されている。さらにはそれの延長としてナヴィーが空中を飛行するシーンがあるが、これはナヴィが人間よりも完全な(充足した)生き物であることを示している(「やつら(人間)は飛べないが、俺達(ナヴィ)は飛べる」とは、ジェイクのセリフだった)。

このどちらもある種手垢のついた話だが、それがそのまま組み合わさって原住民の体を得て原住民を救うという形になるのは、これが初めてではないだろうか。


陳腐なストーリーと応用可能な技術

イノベーションには2種類ある。応用するのが簡単なものとそうでないものである。これは映画の話なのでそのコンテクストで言えば、ある新しいテクニックが発明されたとき、それが監督の特定の作家性と密接に関わっていれば真似することは難しいし、それが独立性の高い(移植可能な)技術ならば他の監督が自分の作品に取り入れるだろうということだ。前者のテクニックはよりアート的であり、後者はよりサイエンス的といってもいい。で、もちろん映画産業を引っ張っていくのは後者のテクニックなのだ。ある技術が一世を風靡するための絶対条件は、他の人が真似することができるということに他ならない。アバターの最大の強みは、その新しい技術あるいはアイデアが、無限の応用の可能性を秘めていることにある。それを分かりやすい形で見せるには、古典的な焼き直しのストーリーはむしろ大正解であった。特撮技術それ自体に価値があれば、お話はリメイクで十分なのだ。だからアバターは「この先10年」を決める映画なのである。

*1:これはしばしばマトリックスのように仮想世界であったりする

 サミュエルソン(1915-2009)


学生時代からすでに天才といわれていたサミュエルソンPh.D.の口頭試問で、シュムペーターレオンチェフをまえにひるむことなくまくしたて、逆に教授たちのほうが話についていくのに精一杯である始末。


口頭試問が終わってサミュエルソンが出て行くと、シュムペーターレオンチェフがつぶやいた。

「さて、ワシリー君、はたして試験には通ったかね?どうだろう?」


レオンチェフは驚いた顔で、「なんだって?当然彼は合格だろう。」


すると、シュムペーターレオンチェフのほうを振り返り、

「そうじゃなくて、我々が、だよ」。



追記:記憶に頼って書いたので、レオンチェフシュムペーターを間違えてました。この元の話は「unconfirmed anecdote」だそうです。