アバター以前とアバター以後


いや凄かった。この先10年を決定する映画ですねこれは。いくつか断片的に思ったことを少し。


話やテーマは使い回しだけど、その組み合わせは新しい

基本的なアバターのストーリーは、原住民と侵略者の対立、アメリカ的に言えばネイティブ・アメリカンアメリカ移民の対立をめぐる話がベースになっていて、一部の良心的な人間が原住民側にたって搾取する人間と戦うという、いわゆる白人罪滅ぼし系の話である。そのため、パンドラの原住民(ナヴィ)のイメージはネイティブ・アメリカンとアフリカの民族が混ざったようなものになっている。

一方で作品を通呈するテーマとしては、現実の自分の体や世界が不完全である(リアリティーがない)という半ば強迫観念にも似た感覚と、もう一つの別の完全な世界*1を求める衝動がベースになっている。この不完全性は、ジェイクが下半身不随であり、そしてアバター(分身の体)を得たとたん走り出すシーンにすでに象徴されている。さらにはそれの延長としてナヴィーが空中を飛行するシーンがあるが、これはナヴィが人間よりも完全な(充足した)生き物であることを示している(「やつら(人間)は飛べないが、俺達(ナヴィ)は飛べる」とは、ジェイクのセリフだった)。

このどちらもある種手垢のついた話だが、それがそのまま組み合わさって原住民の体を得て原住民を救うという形になるのは、これが初めてではないだろうか。


陳腐なストーリーと応用可能な技術

イノベーションには2種類ある。応用するのが簡単なものとそうでないものである。これは映画の話なのでそのコンテクストで言えば、ある新しいテクニックが発明されたとき、それが監督の特定の作家性と密接に関わっていれば真似することは難しいし、それが独立性の高い(移植可能な)技術ならば他の監督が自分の作品に取り入れるだろうということだ。前者のテクニックはよりアート的であり、後者はよりサイエンス的といってもいい。で、もちろん映画産業を引っ張っていくのは後者のテクニックなのだ。ある技術が一世を風靡するための絶対条件は、他の人が真似することができるということに他ならない。アバターの最大の強みは、その新しい技術あるいはアイデアが、無限の応用の可能性を秘めていることにある。それを分かりやすい形で見せるには、古典的な焼き直しのストーリーはむしろ大正解であった。特撮技術それ自体に価値があれば、お話はリメイクで十分なのだ。だからアバターは「この先10年」を決める映画なのである。

*1:これはしばしばマトリックスのように仮想世界であったりする