「しない善よりする偽善」が経済学的に正しい一つの理由


経済学でよく使われる「善意」には二種類ある。ひとつは他人の幸せ自体をうれしいと感じる真の「善意」、もうひとつは善行をしている俺/私って素敵と感じることから効用を得るような自己中な「偽善」である。*1後者の善意はしばしば「不純な利他主義」と呼ばれるが、それは後者では自分が「善い」ことをすることが重要であって、他人が幸せになっているかどうかは二の次だからである。

この2つの善意の区別自体には何も非凡なものはない。こんなことは心理学者や哲学者でなくても誰でも一度は考えてみたことがあるはずだ。しかしアンドレオー二*2 *3が天才的だったのは、この二つの善意を区別したことではなく、それらを数量化してそこに限界分析を持ち込んだところにある。コロンブスの卵のようなもので、一度この発想の転換をしてしまえば、恐ろしいほどシンプルな論理だけでいろいろと意外な結論を導きだすことができるのだ。


そしてその中の一つが、困っている人たちをより助けるのは「偽善」のほうだ、という(場合がある)ことだった。


ものすごく話を簡単にするために、あなたは10万円をもっていてそのうち好きなだけお金を寄付することができるとしよう。あなたは真の「善意」に導かれ、そのうち1万円を寄付したとする。なぜ、1万円を寄付したのかといえば、それは、1万円を寄付することがあなたにとって最適な選択だからである。限界分析の言葉を使えば、1万円から追加的に1円寄付したときの金銭的なコストが、追加的に1円寄付したときに困っている側が得られる便益から得られるあなたの追加的な効用(真の「善意」)がつりあっているからである。

さて、ここで政府が介入してきてあなたから5000円取り上げて困っている人へあげたとしよう。単純な所得再分配である。さて、前と同じようにあなたは残った9万5千円のうち好きなだけ寄付することができる。あなたはどれだけ寄付するだろうか?答えは簡単で、5000円である。なぜならやはりそこが追加的なコストと善意からの追加的な効用がつりあうところだからだ。もっとわかりやすくいえば、あなたの善意が真の「善意」ならば、あなたは困っている人に実際に払った全額のみを気にするはずで、だからそれは税金で取られようが自分で払おうが関係なく一定の値であるはずなのだ。よって、あなたが真の「善意」に導かれているならば所得再分配の効果は0だということになる。*4

一方あなたが「偽善」に導かれているならば、政府が5000円を再分配した後もあなたの寄付する金額は1万円を少し下回る程度である。なぜなら、あなたは困っている人が政府からいくらもらっているかにはまったく関心がなく、困った人に自分が寄付をするという行為自体から効用を得ているからだ。*5

すると政府が介入する場合、困っている人が受け取る金額はあなたが「善人」であるより「偽善者」であるときのほうが多いということになる。まさに「(寄付)しない善より(寄付)する偽善」である。セレブリティーが寄付するのを見て「偽善者」などと思う人もいるかもしれないが、むしろそのような行為はだからこそ「善い」ものなのかもしれない。

*1:この「偽善」の用法はかなり特殊な意味で使っている。最近はこのような意味で使われることがよくあると思うが、ひょっとしたら元の意味ではないかもしれない。

*2:"Giving with impure altruism: Applications to charity and Ricardian equivalence," 1989 JPE.

*3:"Impure Altruism and Donations to Public Goods: a Theory of Warm-Glow Giving," 1990 Economic Journal.

*4:ここでは政府の介入前の解が内点解であることを仮定している。

*5:なぜ寄付が一万円を少し下回るかというと、5000円を払った分だけ貨幣の限界効用が高くなっており、寄付の追加的費用があがっているから。