国際語を話すこと

そろそろ新学期も間近になり、キャンパスを道行くアジア人語学留学生の数も疎らになってきたようだ。夏の間のほんの一時だけ、日本語が道端でよく耳に入ってくる季節は過ぎてしまった。


彼ら彼女達を見ていて、たまにふと考えることがある。語学留学することのリターンは、いったいどの程度になるのだろうか?一月の語学留学は、生涯所得を平均して何パーセント上昇させるのだろうか?


こんなことを考えるのは、研究者の性ということもあるが、最近「古代日本人と外国語」湯沢質幸を読んで、日本における外国語会話の歴史をすこしかじったことが大きい。一言でこの本の結論をまとめるとすれば、日本では伝統的に、外国語の会話の能力はそれほど尊重されなかったということになるからだ。


ここで言う外国語とは、もちろん中国語のことに他ならない。中国語はかなり長い間東アジアの国際共通語であり*1、現在における英語にパラレルな位置を占めていた。


中国語教育、というか外国語教育一般において、重視される能力には2つある。読み書きの能力、そして会話能力である。遣唐使の始まった奈良時代より、この二つの能力の間には、ある程度の差がつけられていた。一つ例を挙げてみれば、奈良時代の大学寮の教育は儒学がメインであったが、その教官の中でも、儒学教官の官位は、発音を教える音博士の官位よりも上であった。他にも、通訳を養成するために、低い官位のものを大学寮で集中して教育したりなどしている。通訳は、エリートのやる仕事ではなかった。雰囲気としては、会話能力はどちらかというと「技術的」なことであり、大学の主流にはならないといったところだったのだろう。


それでも、奈良時代から平安前期にかけては中国音の知識はそれなりに尊重されていたが、平安も中期以降になると、現在のいわゆる漢文読みである訓読が一世を風靡するようになり、中国で実際に使われている音は、ほとんど教えられなくなってしまった。一方で時代が経るにしたがって中国語の発音は変化し、それが間歇的に日本に伝えられるため、日本の中国音には、呉音、漢音、唐音などがそれぞれ駆逐されることなく堆積していき、これら異なる時代の音が同居する結果となった。


英語に関しても、会話力軽視の状況は最近まで似たようなものだったはずだ。帰国子女はあくまでも特別に扱われ、海外の支店に回される社員は、必ずしも出世コースに乗ってはいない。会話はスキルとして分業化されて、通訳にまかされることになり、その能力が出世に響くことはない。そして通訳は相変わらず冷遇されたままだ。


しかしこれは皆、僕が日本にいたときに持っていた古いイメージに過ぎないのかもしれない。たとえば、こんな記事を読んだが、これは正しいのだろうか?僕には全く判断できない。何故こういうことが今起こるのか?グローバリゼーション?バブル時代以前から日本は世界中に進出していたのだから、今更その様なことでもないだろう。それとも、駄目な社員を選別するための方便として、会話能力が使われているのだろうか。いずれにせよ、この傾向が確かに存在するのなら、現在歴史的な転換が起こっているということになるだろう。そういうことは滅多に起きることではないので、僕は非常に懐疑的なのだが。

*1:例えば、日本と新羅、あるいは渤海との間で、中国語が正式な外交言語として使われていたことが資料から推測できる。