日本人は豚インフルエンザに過剰反応しているか


もしも豚インフルへの「過剰反応」を日本人と平均的な外国人の行動の違いととれば、日本人が「過剰反応」してるのは間違いない。空港とかにいって周りを見れば、それに嫌でも気づくことになる。マスクをしている人の割合を見ていればいい。後は国内の国際会議がキャンセルされたりとか、国外の会議への参加を見合わせたりとか云々。


しかし、ひょっとするとこの違いは「合理的」に解釈できるのでは、と思うのだ。日本では人と人とが物理的に接触する機会が多いから(満員電車やオフィス、学校、家庭のスペースの狭さ等々)、豚インフルの拡大がより早く被害がより大きくなる可能性がある。すると豚インフルを予防することのコストあたりの社会的な便益はより高くなる。だから社会全体からすると、個人個人が豚インフル予防により気を使うことが最適になっているかもしれない。香港とかが豚インフルに敏感なのもこのせいだ。ひとり感染者が見つかったフライトの乗客全員が、香港のホテルに一週間缶詰にされたことを覚えている人もいるだろう。


ただもちろん社会全体にとってよいかどうか(社会合理性)と個人がそれをしたいかどうか(個人合理性)は違うわけで、もし個人のインセンティブが日本人もそうでない人も変わらないならば、特に日本人だけが一人一人社会的なコスト(外部性)を考慮に入れてより予防を心がける理由はないだろう。例えば、自分をどれだけインフルエンザから守ってくれるかは良くわかったもんじゃないのに(他人を自分から守る効果はあるだろう)、なぜわざわざ息苦しくて不快なマスクをしなくてはいけないのかと思う人もいるだろう。すると、日本人が社会のために個人合理的なレベルを超えて予防に気を使うようになるようなメカニズムが日本には必要になってくる。ひょっとしたら、感染者が非人間のように扱われるヒステリックな雰囲気も、そのようなメカニズムの一つとして機能しているのかも知れない。


などとつらつらと考えていると、しかし、とまたランダムに考えがあっちの方向に飛躍する。やはり日本は社会合理的な意味でも「過剰反応」しているのかもしれない。そもそも豚インフルの患者は少なければ少ないほどいいのだろうか。むしろ「十分に」蔓延したほうがいいと考えることも可能ではないか。*1ここで「「十分に」蔓延したほうがいい」、というのは誤解を呼ぶ言い方かもしれない。これは、海外で豚インフルが蔓延している現在、仮に日本が豚インフルを完全にシャットアウトできていたとしたら、それはそれで必ずしも良いことではなかったかもしれない、という意味だ。


これもネットワークや外部性に関係した話になる。現在流行っている豚インフルは季節性のインフルエンザとそれほど症状の重さは変わらない一方、将来似たような新型インフルエンザが流行ったときに免疫の役目を果たすかもしれない。すると、ある程度感染者がいたほうが、将来より致死的なウイルスに変異したインフルエンザが大流行した場合に、感染の拡大のスピードがより遅くなるかもしれない。20世紀の前半に起こったスペイン風邪の大流行でも、その第一波は比較的軽い症状の(通常と変わらない)インフルエンザの流行だった。致命的だったのは、変異したウイルスによって引き起こされた第二波、第三波だ。この時、第一波で感染していた人たちは、感染を免れた、あるいは感染したとしても軽度で回復が早かった。*2


ただ現実には、将来の第二波の拡大を抑えるには、第一波の感染者の割合が十分高くなくてはいけないかもしれなくて、するとそのコストは将来の便益には見合わないかもしれない。それに実際に第二波が来るかどうかには不確実性があるので、そうすると便益はより一層割り引かれなくてはいけない。*3結局日本人が「過剰反応」かどうかは、最適な予防のレベルがどれほどかによる。そしてここで述べたことは、そのレベルを決めるせいぜい一つの要因に過ぎない。当然経済的なコストは無視することが出来ない。しかし、その最適なレベルが定量的にどれほどのものなのかは、専門外の人間には(で恐らく専門家にも)わかりづらいというのが正直なところだ。

*1:もちろんそのようにうまく患者の割合をコントロールすることなど出来ないという論点はあるが(そしてそれは正しいと思うが)、それはまた別の話なので、ここでは感染の割合を完全にコントロールできると仮定する。

*2:しかし、むしろそのような人たちこそ、症状が軽度で通常生活を送るため致死的なウイルスの運び屋になってしまう、という議論もできるだろう。

*3:ただ感染者数0は最適ではないだろう。それを可能にする経済的コストは甚大なものになるはずだから。