手塚治虫の評価は十分に確立されたんだろうか?


手塚治虫の、恐らく初めて(!)のアメリカにおける大規模な個展が、Asian Art Museum of San Franciscoで開かれている。

http://www.asianart.org/index.html

かなり前から手塚のコミックは翻訳され続けているが、読者が増えてきたのは、本当に最近になってからだ。どうやら、去年と今年は、出版ラッシュだったようにみえる。きりひと賛歌が翻訳されて、評判もいいようだし、ブッダの安いソフトカバーのバージョンが立て続けに出て、かなり新しい読者を獲得したみたいだ。それでも、アマゾンでの売れ行きをみると、それほど印象的な数字を残しているわけじゃない。(http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-url/104-7949297-8612737?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books&field-author=Osamu%20Tezuka)。むしろ、最近の日本の漫画のほうが圧倒的に認知度が高いはずだ。


日本では、手塚治虫はいい意味でも悪い意味でも神様だったけど、最近はどうなのかな?あまりに神格化されすぎたり権威付けられたりしてきたから、その神話の解体とか、手塚を乗り越える、とかいう話になっているような気がする。でも、アメリカの状況を見て思うんだけど、手塚って、本当に、きちんと、十分に、権威付けされたんだろうか、って思うことがある。もうちょっと詳しく言うと、ただ持ち上げるだけじゃなくて、きちんと何故優れているのか理論づけされて、その知識が一定の数以上の人々の間で共有されてきたのかどうかっていうこと。あることに権威がつくってのは、そういう努力の結果、そのことを直接知らない人でも、それには一目置かざるを得ないことになる、ってことだろう。それは、一部の狭い専門家達の集まりの外でも通じるような、歴史的な共通見解のようなものだ。そして、それへのアンチ・テーゼが生きてくるのは、それがきちんとエスタブリッシュされたその後だ。


でも、上の事からもわかるように、一般のアメリカ人は手塚なんて、全然知らないんだよね。日本の外では、手塚はまだ十分に権威付けされていない。まあ、アメリカ人ってのは「そのことを直接知らない人」の極端なケースだし、アメリカ人になんて分かってもらえなくてもいいよ/分かるはずがない、って思うかもしれない。でも、これから僕が連想するのは、ひょっとしたら手塚をきちんと権威づけする努力はあまりされていなかったんじゃ?、てこと。そしてそのうち、若い世代も、アメリカ人のように手塚なんて何とも思わなくなるんじゃ?、ってこと。あと20年ぐらいたったら、手塚に関する批評を読んでも、いったい何で手塚について議論する必要があるのか分からない、ってことになったら寂しいな。まあ、日本の状況に詳しくないので、杞憂だと思うけど。というか、だといい、と思う。