マーシャルズ・テンデンシーズ:エコノミストは何を知ることが出来るのか?


Marshall's Tendencies (Gaston Eyskens Lectures): What Can Economists Know?

Marshall's Tendencies (Gaston Eyskens Lectures): What Can Economists Know?


"How many times have we heard: "Yes, it's simple." Nothing is simple. We live in a world where nothing is simple. Each day, just when we think we have a handle on things, suddenly, some new element is introduced, and everything is complicated once again." - Log Lady.


経済学者は、モデルを使って現実を捉えようとする。現実のデータを扱うときに置かれる典型的な仮定は、関心のある(内生)変数の動きを、いくつかの重要な(外生)変数による変動と、それ以外のエラーに分解できるというものだ。サットンは、この考え方を、マーシャルによる波に関する有名な比喩を使って分かりやすく説明している。いわく、波の動きはいろいろな要因の影響を受けているが、基本的には太陽と月の引力によって説明でき、他の要因はエラーとみなすことが出来る、等々。するとあと必要なのは、このエラーが望ましい性質(説明変数との独立性、分散の均一性etc.)を満たしてくれることだけだ。すると、十分なデータがある限りスタンダードなテクニックを使って真のモデルを見つけ出すことが出来る。


サットンは、もしこのアプローチが正しいのであれば、経済学者はずっと昔に「真のモデル」にたどり着いているはずだという。実際はそうでないのだから、つまりそのような真のモデルとエラーへの分解は実際には成立していないのだ、と彼は主張しているわけだ。彼によれば、そもそも一つのモデルで説明しようというのが間違いの元ということになる。どんなに巧く変数を選択してモデルを立てたとしても、必ず重要なファクターが抜けてしまう。しかもそれぞれのデータごとに、そのファクターは違っている(そうでなければ、そのうち真のモデルが見つかるだろう)。結局、重要な変数をすべてリストアップすることなど出来ないのだ。


じゃあ、どうすればいいのか?彼は、どんな撹乱要因が入ってきても恐らく成立するであろうロバストなプロパティー(頑健な性質)は何かと考える。しかし、どうやってそのようなプロパティーを見つければいいのだろう。ここでアプリオリな直観に頼ってもいいわけだが、彼が薦めるのはClass of Modelアプローチである。自分が尤もらしいと考えるモデルを一つでなく、複数持ってきて、どのモデルでも成立するプロパティーを探すのだ。*1,*2,*3


彼はこのアプローチを、市場の集中度を題材に説明している。昔からよく研究されてきたトピックだ。ある市場では沢山の企業が競争している(集中度が低い)。他の市場は少数の企業に支配されている(集中度が高い)。この差はどこから来るのだろうかという話だ。市場の集中度を説明するためには、企業の参入退出のメカニズム、製品の同質/非同質性など様々な要因を考慮に入れなくてはいけない。それぞれの可能性に応じて、異なったモデルを考えることが出来る。もちろん経済学者はどれが正しいモデルか前もって知ることが出来ない。例えば、参入退出のメカニズムの詳細(タイミングなど)は、観察不可能だ。


そこで彼は、一つのモデルにこだわらず、全てのモデルで成立するような性質に注目する。彼が注目するのは、次の二点だ。*4

1. Viability: 企業は赤字ではない。
2. Stability: 新規参入の余地は残されていない&既存の企業が戦略を変えることでより高い利益を上げることができない。*5

何かものすごく一般的過ぎて、ここから何も言えないような気がするのだが、この原則から彼は、市場が拡大していくときの集中度の下限に関するロバストな性質を導き出している(バウンド・アプローチ)。彼によると、R&Dや広告によって製品の価値を高めることができる場合は、集中度に下限がある(つまり、市場がどんどん大きくなっても企業の数は一定以上増えない)、一方そうでない場合は、市場が拡大するにつれて集中度は0に行く(企業の数がどんどん増えていく)という結果が導けるらしい。


この理論的予想は、データで確かめることが出来る。*6R&Dや広告費の高い産業とそうでない産業での集中度の下限を推定すればいい。*7もちろん一つのモデルの場合と同じように、色々なファクターが撹乱要因として入ってくる。しかしそれらの要因はロバストな下限に影響を与えないと、彼は考えているのだ。別の言い方をすれば、どんな複数のファクターが撹乱要因として入ってきても、それらはデータを一定の方向(集中度を上げる方向)にしか動かさないだろうということだ。ここで起こっていることは、コントロールできない要因を、単なるエラーとは別の仕方で、一つのところに押し込めてしまうということである。*8


こう考えてみると、マーシャルの成し遂げようとしていたことと彼のやっていることは、ある種似たような動機に基づいているようにも見える。もちろんアプローチはかなり違うのだが。

*1:どのClass of Modelを選ぶかは結局アプリオリな選択なわけだが、最初から経済的な直観に基づいた議論をするよりはシステマティックなわけで、モデルを通じたアプローチに慣れている経済学者にはそこそこ馴染みやすい考え方だろう。

*2:しかし実は彼が提示しているのは複数のモデルをその中に含むほど柔軟性のある、一つのモデルだ。とすると、このアプローチと通常のアプローチの差は複数のモデルを使うこと自体にあるのではなくて、モデルの使い方(バウンド・アプローチ)にあるというべきかもしれない。

*3:彼の選んだClass of Modelがもっともらしいかどうかは、人によって意見が分かれるかもしれない。彼の考えているモデルは有限期で終わるため、最後の期に必ず競争が起こるようになっている。この仮定は、企業の結託の可能性を排除している。

*4:この二点をある種の公理として考えれば、何かちょっと協力ゲームのアプローチみたいな感じもするな。

*5:要するに、利益を上げるような逸脱が存在しないということ。

*6:ロバストな性質を見つけることは、ここでのようにテストに有用なだけではなく、政策提言をするような場合に特に有効だろう。どれか一つのモデルに頼って政策提言をすると、間違えたときにひどいことになるかもしれないからだ。彼は、SanDiegoでのタクシー規制の失敗をその例にあげている。

*7:下限の推定に関する技術的詳細は、本の中では紹介されていない。

*8:何で似たようなことを、通常の回帰式でやってはいけないのか?昔の産業組織論(Old IO)のように、集中度をR&Dに回帰してその係数が正ならば、それでいいのでは?しかし、もしそのモデルが正しいならば、推定された残差は対称的になっているはずだが、実際の残差は激しくSkewしている。彼は、この事実をバウンド・アプローチが正しいことの傍証として捉えている。