ボランティアのジレンマ


授業でこの前「ボランティアのジレンマ」という実験をやってみた。例えば次のような状況を考えてみる。

夜中に誰かの「助けて」という叫び声で目が覚めた。あなたには二つの選択肢がある:(1)警察に電話をかける、(2)ベッドから出るのが面倒なのでまた寝る。さて、近所の誰か1人でも警察に電話をすれば、この助けを求めている人は無事に保護されることになる。しかし、誰も警察に電話をしなければこの人は殺され、あなたは次の日の新聞を見て後悔することになる。

あるいは、こんな状況。

道端に誰か初老の男性が倒れている。あなたは(1)彼に声をかけて必要なら救急車を呼ぶことができるし、あるいは(2)無視して通り過ぎることもできる。あなたに限らず誰か1人でも(1)を選べばこの男性は助かるが、だれもそうしなかった場合は、あなたはやはり次の日の新聞を見て後悔することになる。

最初の例を使って考えてみよう。じつはこの「ゲーム」では(1)と(2)をある確率で選択するというのが(唯一の対称的な)均衡になっていることが確認できる。*1もし誰か他の人が電話をかけるなら、あなたはわざわざ暖かいベッドの中から出る必要はないし、一方で誰も電話をかけないとわかっていれば、あなたは当然電話をかけるべきだ。だから全員が電話をかける、あるいは誰も電話をかけない、というのは均衡にはならないのだ。


さて、面白いのは、この「ゲーム」に参加する人数が増えたらどうなるか、ということである。自分以外の人数が増えれば、誰かが電話をかけてくれるだろうと思うから、わざわざベッドを出る必要はない。電話をかけるためには、自分以外の誰も電話をかけない可能性が十分に高くなくてはいけない。だから、一人一人が警察に電話をかける確率は、人数が増えるにつれて低くなる。*2一方で人数が増えること自体は、誰かが警察に電話をかける確率を高める効果を持つ。すると、トータルではどうなるかという話になるが、結論を先に言ってしまえば、誰も電話をかけずにこの人が殺される確率は、人数が増えるにつれて理論的には上昇することになる。周りにたくさんの人がいるのに、ではなく、いるからこそこの人は見殺しにされるのである。 *3


さて、実験の結果だが、青い線が人数を2人、4人、8人と変えたときに1人1人が電話をかける理論的な確率で、赤い線は実際に「電話をかける」を選んだ人の割合だ。

うまくいけばいいな、と思っていたところ、完璧なフィットに逆にこちらが度肝を抜かれる。


この割合を1人1人の電話をかける確率と解釈して誰も電話をかけない確率を計算すると、当然これもほぼ完璧に理論どおりの値をとる(縦軸のスケールが0.01であることに注意!)。確かに誰も電話をかけない確率は人数が増えるにしたがって上昇していっている。


これほどうまくいったことにびっくりした理由は二つある。一つは、ベッドを出るコストや見殺しにすることの後悔のコストはこちらで一方的に指定したが、実際に学生達がそれを使って意思決定をするかどうかは怪しいこと。それぞれが自分の本来の感情にしたがって行動すれば、こちらが指定した数値は何の意味も持たない。もう一つは、実験での行動が理論的な均衡に近づくためには同じ実験を何回も繰り返さなければいけないものなのに、この実験は(それぞれの人数について)一発勝負でうまくいったこと。実験を何回も繰り返すのが有用なのは、何回も繰り返すうちに学生達がゲームのルールや他の学生の戦略を学習していくからだ。ひょっとしたら、このボランティアのジレンマに構造が似ている状況は意外とそこらじゅうに転がっていて、学生達にはなじみのあるものなのかもしれない、などと考えてみた。

*1:もちろん非対称な確率的でない均衡もある。例えば1人が(1)を選び、残りの人が(2)を選ぶ、というのは均衡になっている。しかし匿名性の高い状況を考えれば、ある特定の人に特殊な役割を与えるのは不自然である。

*2:一人一人が電話をかける確率pは次のように求められる。ベッドを出て電話をかけるコストを-C、助けを求めていた人が殺されたことを知ったときの感情的なコストをLとする。もしもn人の人がいるとすれば、電話をかけることとかけないことが無差別になるために、pは-C=(1-p)^{n-1}(-L)を満たさなくてはならない。これを解くとpをn,c,Lの関数として求めることが出来る。

*3:これに似たような現象は実際に観察され、社会心理学では傍観者効果と呼ばれている。