ハンディキャップ原理とシグナリング理論 その2


あえて意外な取り合わせを狙ったからガゼルと狼の例にしたけど、本当は別の例にしたほうがハンディキャップ原理とシグナリング理論の類似は見やすいだろう。例えばクジャクの羽がいい例だ(そもそもザハヴィの原論文からの引用も、性選択の話だしね)。大きくて立派な羽を持っていると、多くの雌を引き付けることができる。しかしそのような羽を身に着けるには物理的なコストがかかるし、敵に狙われる危険も増えるから、そのようなコストをものともしない優れた雄だけがそんな立派な羽を身にまとうことが出来るというわけだ。*1


ところでこの理論には一つ問題がある。実はこのようなシグナリングの起こる均衡は通常無数に存在するからだ。労働市場シグナリングを例にとってみよう。大学に行くことで賃金が100増えるとする。次に2種類の学生がいるとして、大学に行くコストが高い能力の学生の場合は50、低い能力の学生の場合は150だとすると、前にも述べたような高い能力の学生が大学に行って、低い能力の学生が大学に行かないという均衡(分離均衡)が存在する。さて、ここで大学院までいくと追加的に30のコストが高い能力の学生にかかるとしてみよう。すると、(1)低い能力の学生は大学に行かない、(2)高い能力の学生は全て大学院に行く、(3)賃金が100増えるのは大学院まで行った場合のみ、という"overeducated"均衡も存在するのだ。*2もしも大学院の勉強が何の役にも立たない純粋なシグナリングなら、これは全くの無駄である。


このように高い能力の学生のコストのとり得る値に幅が出来ることには、実は教育のレベルと能力のレベルが離散的だという仮定が影響を与えている。もしも能力とシグナルが連続的な変数であれば(クジャクの羽の長さのように)、異なる能力の個体が異なるシグナルを使う限りにおいて、このような問題はそれほど重要ではないかもしれない。*3しかし、複数均衡の問題はこれだけに収まらない。これに加えて、別々の能力を持った個体が同じシグナルを使うような均衡がたくさん存在するからだ。一番単純な例は、(1)能力に関わらず学生は大学に行かない、(2)高卒の学生には一定の賃金(=平均能力)を払う、(3)大学に行っても賃金は全く上がらない、という均衡だ。学生には大学に行くインセンティブがない一方、会社は大学に行く学生が特に優れていると思わないので賃金を上げないというふうになっている。


面白いのは、ここで経済学と生物学(より正確には動物行動学)の反応が分かれるところだ。経済学(ゲーム理論)では、この複数均衡の問題の解決がその後の研究の中心的な課題になった。一方生物学では、複数均衡の問題はそれほど大きく取り上げられることはなかった(ただし論文が全くないわけではない)。*4なぜこのような違いが出てきたのか、ちょっと考えてみると面白いかもしれない。

*1:もちろんこれは全て比喩的な表現だ。生まれた後に自分の羽を選ぶことは出来ない。羽の形態を決定するのは遺伝子だ。だからここで言っているのは、「羽を立派にする」遺伝子は「優れた能力」に対応する遺伝子と組み合わされたときのみフィットネスを増加させるということだ。

*2:会社は、学生が大学院まで行ったときのみ能力が高いという信念を持っている。

*3:この場合xの能力に対応するシグナルはf(x)という増加関数で通常一意に表される。

*4:グラフェンによれば、「それはテクニカルな問題に過ぎない。」