馬場辰猪についてもう少し

馬場辰猪は土佐出身の自由民権家だが、中でも当時としてはかなり変わった人生を送った人物だ。以下は簡単な紹介である。

自由民権家というと何やら紳士のように聞こえるが、自由民権運動の「志士」といわれることからも分かるように、むしろ「浪士」崩れの豪傑達といったほうが的を得ているだろう。しかし、馬場は、違った。何がって、まず見た目がいいのである。福沢諭吉は、馬場が慶応義塾に入った頃を回顧し、こう言っている。


...17歳眉目秀英、紅顔の美少年なりしが、この少年唯顔色の美なるのみに非ず、其天賦の気品如何にも高潔にして、心身洗うが如く一点の曇りを留めず、...(「追弔辞」、「福沢諭吉全集」 第19巻)

彼はこの後イギリスに渡り、20代の大半を、ロンドンで法学や経済学などを学んで過ごした。*1そこで、内面までもすっかり紳士となったに違いない。*2

彼のもっとも有名なエピソードは、森有礼との論戦だろう。森は駐米公使として在米中、明治6年に「日本の教育」という本をNYで出版した。この中で主張されたのが、かの有名な英語採用論である。日本語は中国語の助けがなければ成り立たないような貧弱でかつ不完全な言語であるから、国語としては適当でない、だから、英語を国語として採用しよう、というのがその趣旨であった。ロンドンに在住中の馬場は、これに対する反論を兼ねて、同じく明治6年「日本語文典」*3という英文で書かれた初の日本語の文法書を、ロンドンで出版した。まだ、「国語」という概念のはっきりしていなかった時代の話である。*4

馬場の、森への批判はいくつかある。一つは、英語を国語として採用すると、国民の階層分化が起こり、国内の統一が難しくなるということ。裕福な階層は時間があるので、英語を比較的簡単にマスターできるが、貧困な階層には新しい言語の習得は難しい。すると、結果として政治から多数の人民が排除されることになってしまう。もう一つは、ただ単に、日本語はほかの言語に比べて特に不完全な言語ではない、というものだ。言うだけなら簡単なのだが、すごいと思うのは、実際に文法書一冊を書いて反論とするその根性である。


馬場は、イギリスから帰国した後はさまざまな政治運動に関わることになるのだが、最終的には、それらに失望することになる。上のやりとりから推測できるように、彼は藩閥政府主導の政治には頑として反対だったのだが、一方で下からの(政党政治による)改革を担うべき(板垣退助をはじめとした)人々の民度の低さに幻滅したのだ。彼はある事件に巻き込まれた後明治19年アメリカに亡命し、しばらくしてフィラデルフィアに落ち着き、そこを拠点としつつ、講演や文筆を続けた。日本から鎧や槍、剣などの多数の武具をアメリカに持ち込み、それらについて講演をしたという記述が日記に残っている。*5これは、講演家としての名声を打ち立てるためであったろう。聴衆の前でそれらの武具を身に着ける実演も行っていたらしい。

しかし、彼に残されている時間は余り無かった。次第に困窮する経済状態の中で、彼は武具を処分し始める。*6 そんな中、しだいに持病であった結核に蝕まれていき、前にも述べたように、1888年明治21年)にペンシルバニア大学病院で客死するに至る。享年は、(数え年で)39歳であった。*7,*8

*1:実は彼は初めは土佐藩の留学生に選ばれていなかった。すでに決まっていた4人の土佐藩留学生の内二人が、横浜を出航する前夜に吉原遊郭で騒いだ挙句騒動を起こし、自決してしまったので、馬場が急遽代わりの一人として選ばれたのである。

*2:中江兆民の「三酔人経綸問答」の中に出てくる「洋学紳士」は、馬場がモデルであると言われている。

*3:驚くべきことに、この本は今でもamazonで改訂版が手に入る。Availability: Usually ships within 1-2 business days だそうだ。

*4:皮肉なのは、国語の行く末を巡る最初の本格的な論戦が、英語で、大西洋をはさんで、行われたという事実である。どちらの本も、すぐに日本語に翻訳されることはなかった。

*5:馬場は英文で日記を残している。

*6:多数の武具は、Philadelphia Museum of Artに売却され、現在もそこに保管されている。

*7:前にも述べたように、彼は現在フィラデルフィアのWoodland墓地に眠っている。

*8:ちょっと強引だが、なにかこの生涯は、水村美苗の「私小説」と、ちょうどいいコントラストをなしているような気がする。水村は日本に帰ってきたが、馬場は、日本を出て行くことを選んだ。もちろん彼は日本を捨てたわけではなく、念頭には常に日本の政治があったわけだが。また、彼の著作はほとんどが英語で書かれている。馬場には漢文の素養がなかったため、漢文調の「美しい」日本語を書くことが苦手だったのだろう。さらに言えば、馬場の感性と水村の感性は、かなり違う。水村からは、アメリカにいる日本人の「引け目」のようなものを、強く感じる。そこで中心なのは、移民のアイデンティティの問題である。一方、馬場の文章には、西洋へのアンビバレントな感情をほとんど見つけることができない。彼は、ひょっとしたら「私小説」に出てくるユダヤ人の教授のように、自然な移民ーアメリカに居場所を見つけた一人の日本人ーなのかもしれない。日本を亡命したにもかかわらず、彼の日本人としてのアイデンティティは、全く揺るぐことがない。それに加えて、彼には、西洋へのコンプレックスも見つけることができない。もちろん、日本が西洋に劣っていないと思っているのではない。むしろ、劣っていることがまず前提としてあるから、これから追いつけばいい、という単純な態度が自然と出てくるといえばいいだろうか。彼はしばしば欧米に反感を持つことがあるが、それは直説的なものである。(たとえば彼は、日本に在留するイギリス人の蛮行に対する抗議を、英文でロンドンで出版している)。これは日本人移民のアイデンティティの歴史的な断層だろうか。それとも、馬場はただ単に自分の内面を日記に記していないだけなのか?