リバタリアン・パターナリズム: とりあえずのコメント


http://d.hatena.ne.jp/tazuma/20081219


1.人間が合理的に行動しないのはその通り。では、どのタイプの非合理性が行動を規定すると考えればいいのか?ある特定の場合にはデータからおおよその傾向は分かるだろう(401(k)はいい例)。ではそうでない場合は? 


2.現実の市場では、競争の激しさに応じて行動バイアスはある程度矯正されることが考えられる。すると市場か(彼らの意味の)介入かの選択を考える場合、市場での行動バイアスを過大評価、あるいはパターナリズムでのもとでの行動バイアスを過小評価する可能性がある。


3.私的部門での「パターナリズム」が何を意味するのかよく分かりにくい。例えばカフェテリアのデザインを担当しているものは、別に使用者の厚生を最大化しようと思っているのではなくて、企業の利益の最大化に貢献しているだけとも考えられる。より使いやすく快適なデザインのカフェテリアは、より悪い条件で人々を集めることに貢献するからだ。この場合「パターナリズム」という言葉を使う必要があるだろうか?これはむしろ、使用者の非合理性を考慮に入れた利潤最大化として考えても良いのではないか。


4.あるオプションの集合を提示することを前提にすれば、どれをデフォルトにするかという問題は「リバタリアンパターナリズム」の範疇に落ちる。それらは人々の選択を制約しないからだ。しかし、そのオプションの集合自体を選ぶ段階で、リバタリアンの原則を破らざるを得ないのではないか。すると、厳密な意味での「リバタリアンパターナリズム」というものはそもそも可能なのか?市場尊重の立場からは、可能なオプションを市場に選ばせるべきだという反論があるかもしれない。


5.すくなくともオプションを提示する仕方だけですら人々の行動に影響を与えるのだから、パターナリズムを回避することは出来ない、というのは強力な議論だ。しかし強力な議論の代償として、彼らはパターナリズムの範囲を狭めざるを得ない。一部の行動経済学者が強力にプッシュしているアイデアを素直に受け取れば、むしろ選択の幅を人為的に狭めたほうが厚生が改善されるという結論に至るだろう。実際彼らは最終的にはそこまで主張することになるようなふしがある。例えば前の要約では省いたが、カフェテリアでデザートをすこし遠くに置くことで使用者が(デザートを控えることを促すことで)より健康になる、という例を彼らは挙げている。これはMultiple-selfっぽい話で、すでにカフェテリアにいる自分(self)にとってはデザートは近くにあるほうがいいのだが、カフェテリアにいないときには、カフェテリアにいるときの自分が誘惑に負けることを考慮に入れてデザートが遠くにあるデザインを好む、という理屈だ。彼らはこれは使用者の選択の範囲を狭めていないといっているが、厳密に言えばそれは正しくないだろう。ここでは遠くまでデザートを取りにいくということが強制されている。まとめると、「リバータリアンパターナリズム」にこだわるのは、議論の方便としては良いが、行動経済学の知見を(それに賛成するか反対するかは別として)最大限に生かす方法ではないと思う。ただ彼らの意見をより肯定的に評価すれば、彼らは「リバータリアンパターナリズム」それ自体を厳密に目標としているのではなく、それを政策判断のための一つの基準(あるいは理想型)として提示していると考えてもいいかもしれない。リバタリアン的な発想とパターナリズムは必ずしも矛盾しない、だからよりリバタリアンか(人々の選択の幅を狭めない)どうかがパターナリスティックな政策の一つの評価軸となりうる、という感じに。


(追加)6.人々の選択がデフォルトに依存する、あるいはより一般に特定の非合理性が無視できないことを前提にしたとき、従来市場にまかせる領域とされてきたものと政府にまかせる領域とされてきたものの間の境界線はどのように引きなおされるのだろうか?このことについては彼らは理論的に語っていないし例も出していない。しかし間違いなく最終的な戦線はこちらのほうである。やはりここでも、彼らは議論の方便としてあえて戦線を手前にとっているのでは?


とまあ、こんな感じか。まあ、あとは本が届くのを待つとしますかね。