リバタリアン・パターナリズム
Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness
- 作者: Richard H. Thaler,Cass R. Sunstein
- 出版社/メーカー: Yale University Press
- 発売日: 2008/04/08
- メディア: ハードカバー
- 購入: 3人 クリック: 35回
- この商品を含むブログ (19件) を見る
「Nudge」を注文したのだが、本が届くまで著者達(セイラー&サンスタイン)のAER論文「リバタリアン・パターナリズム」でも読んでおくことにする。
以下は彼らの議論のラフな要約。
経済学者の発想はリバタリアンの発想と親和性が高く、「パターナリズム」という言葉は通常ネガティブな意味で使われることが多い。しかし、これは一つの間違った仮定と、二つの間違った認識に基づいている。
まず間違った仮定とは、人々は合理的に行動する、あるいは少なくとも第三者に選択を任せるよりは当人の選択のほうが優れているという仮定である。この仮定が到底信用できないものであることは、心理学においても経済学においても何度となく指摘されてきている。*1。
次に二つの間違った認識だが、まず第一に「パターナリズム」は回避できると言う考えがそれだ。状況によっては、(それが私的部門か公的部門かに関わらず)ある種のパターナリズムは不可避である。例えばカフェテリアで食品を陳列するときに、あなたは使用者にとって便利であるようにそれらを陳列することも出来れば、全くぐちゃぐちゃに陳列することも出来る。しかしいずれにせよ、あなたが少なくともデフォルトとしてどのように陳列するかを選択しなくてはならないことに変わりはない。そしてこの場合、より「パターナリスティック」な前者の選択を否定する理由は何もないのだ。だからある政策がパターナリスティックか否か、という問いはあまり面白くない。より建設的なのは、パターナリスティックな政策のうちのどれがより望ましいかを問うことである。
この例を使って、もう一つの間違った認識も説明できる。それは、「パターナリズム」は必ず強制を伴う、あるいは選択の自由に抵触する、という考えだ。カフェテリアの例では、食品の並べ方をいじっただけで、使用者の選択できるメニューは全く影響を受けていない。だからパターナリスティックな介入が必ずリバタリアンの原則を犯すわけではないのだ。このようなパターナリズムはリバタリアン・パターナリズムと呼んでもいいだろう。
さて、「人間は合理的ではない」+「パターナリズムは不可避」+「パターナリズムは個人の選択の範囲を制限しない」という新しい認識はどのような政策的な意味を持つだろうか。セイラーとサンスタインが望ましいパターナリスティックな政策と考えるのは、人々の選択のフレームを(必ずしも制限しないように)いじって、彼らにとって「より望ましい」選択がされるように促すような政策である。たとえばこんな面白い例がある。401(k)のシステムを、Opt-in(デフォルトでは加入しない)からOpt-out(デフォルトで加入)へと変更すると、加入者が大幅に増えるというのだ。*2このように人々が自分で明示的に選択をしない結果としてデフォルトのオプションを(恐らくそれは本人にとって最適な選択ではないのに)選びがちであることはよく知られている。この場合政策の責任者は、多数の人にとって望ましくないと彼あるいは彼女が判断するような選択をデフォルトにするべきではない。
しかし「より望ましい」政策とはなんだろうか。顕示選好の原理*3はあまり当てにならない。なぜならここでは人間は間違えるということが前提になっているからだ。では、一般的にどうやったら人々が「望んでいる」選択肢を発見できるのだろう。まず、なるべく客観的に測定可能な指標(肥満度、医療費、平均寿命など)を利用したほうが良いということぐらいは言えるだろう。ただ残念ながら多くの場合、上に述べたようなパターナリスティックな政策について厳密な厚生判断をすることは容易ではない。そこで彼らは厳密な厚生判断の代替物として次の3つの手続きを提案している。第一に、もし選択が明示的に求められたときに過半数が選択するであろうと思われるオプションを採ること*4。第二に、明示的な選択を実際に導入してみること。そして最後に、デフォルトの選択を後に変更する人の人数を最小化するような政策を採ること。例えば401(k)の例では、Opt-outの場合に後で抜ける人の人数はOpt-inの場合に後で加入する人の人数よりも少ないことが知られている。この場合、Opt-outのほうが人々の真の平均的な選好をより正しく近似していると考えてもおかしくないだろう。