不毛な議論


つらつらとはてなを徘徊し、ブックマークの集まっているところをみると、よく活発な議論が興っていることがあるが、そういう議論はわけが分からないことが多い。例えばこういう記事を見たわけだが、書かれていることは別に「あたりまえ」のことなのに、(ポジティブネガティブ含め)コメントとブックマークの嵐に襲われている。


ある議論に異議申し立てをする理由には、3つある。


(1)議論の進め方、あるいは議論の前提が間違っている。
(2)価値観が異なる。
(3)話し方が気に入らない。


今回はほとんど(3)だろう。で、(3)関連の議論から何かを得ることはほとんどないのに、なぜわざわざコメントして盛り上がるのかな、と思うのだ。効率的に議論するには、(3)の問題は出来るだけスルーしておいて、(1)と(2)に集中したほうが良い。そもそも内容と表現の問題は分けるべき、と言って終わりにしてもいいとは思うのだが、しかし不思議なのは、このケースを含めて、コメントで盛り上がるのはむしろ「話し方」が問題になっている時である方が多いように見えることだ。*1ただ、社会的な立場(「経営学の講師」など)とか状況もあいまって、ある人達にとっては一言一言が気にさわるのは良くわかる(これがマリーアントワネットの話で、彼女の「かわいそうだから、ケーキでも食べればいいのに」という言葉の「ナイーブさ」を批判しているのであれば、誰も文句を言わないだろうに!)。しかし、ちょっとした口の悪さにそれほど目くじらたてても、しょうがないだろうと思うのだ。*2 


もちろん実は微妙な論点もあって、全ての(3)の系列の議論が退屈なわけではない。(3)の系列の議論にも2種類あって、単純に汚い言葉/混乱するような比喩を使ったというようなものもあれば、ある特定の言葉遣いの持つ政治的な作用を指摘するようなものもある。例えば、ある人はここで「トリアージ」の正当性が当然の前提とされている、と感じるかもしれない。または、学生やジェンダーに関するステレオタイプだとか。この手の文句は、確かに、それなりに意味がある。あると思うが、これをやりすぎると興論自体を萎縮させる。*3


僕が望ましいと思うのは、ある種の政治的な効果を持ちえる言い回しが頻繁に使われていることを指摘する際には、それが使われている文章をそれぞれ一回ごとに批判するのではなく、複数の例をあげつつ、その全体としての傾向自体を批判するという方法をとることだ。そもそも、一回の独立したイベントからある特定の言葉の裏の意図を深読みするというのは不毛なことが多い。


ただ、今回のケースには余り曖昧なところもない。このブログの作者が、「トリアージ」を当たり前のものとしてそこに存在する残酷さ/困難さを全く無視している人間ならば、その態度を糾弾する意味もあるが、全体の主旨(=学生のナイーブさへの驚き)からすればこの比喩があたかも事故のように出てきたことは明らかであって、その比喩はせいぜい、限られた資源の中では全ての望ましい目的を達成することが出来ないので、冷静なプランニングが重要になってくるという(原則として価値中立的な)事実を指摘する以上のものではない。*4ようするに、読むときは相手の意図をきちんと読み取りましょう、ということに尽きる。それがうまくいけば、言葉使い、あるいはその裏に隠れた意図について延々と不毛な議論を重ねる必要もない。


追記:ちょっと、ミスリーディングなところを直しました。よく見ると元の記事のコメントは、ポジティブなのが多いですね。いくつかかなりネガティブなコメントやトラックバックを見たので、上の文章はその印象に引っ張られているかもしれません。しかしまあ一般的にはこういうことはよく見かけることです。(こういう議論をするときは「複数の例」をあげたほうがよいですね)。

議論・コミュニケーション一般について大事だと思うのは(というか僕の体にしみついているのは)、情報や意見のアウトプットは「神様だ」ということです。だからそれをなるべく邪魔しないで、むしろEncourageするべき。語り口・言葉使いの問題は二次的なもので、ある特定の文章への批判にまずそこから入るというのは下の下だと思います。(まあ、ある程度場合によりけりですが)。相手の言いたいことを組みとる、細部では間違っていてもそこは補完して考える、というのが基本的に大事で、その「原則」は、ブログという推敲がきちんとされないことがデフォルトであるメディアではより重要になってくるはずなんですけどね。

それ以外にも(上の原則のコロラリーとして)、つまんなくてもただ「つまんない」と言わないとか、批判をするときはまず相手と同じ土俵に立って(たとえば相手の価値観や問題意識を前提として)建設的な批判をして、ちゃぶ台をひっくり返すような超越的な批判は一番後、などなど。


id:flurryさんへ 事故です。僕の経験上のことを余り考えずに書いちゃったんですが、確かにおっしゃるとおり余計なので括弧の中は消しておきましょう。

*1:もちろん本当に不思議に思っているわけではなくて、この問いへの経済学者としての答えは、コメントを送るのを好きな人がはてなに集まっているということになる。要するに、これはいわゆるセレクション・エフェクトだ。

*2:もちろん、ひどい差別的言辞はこれに当てはまらない。

*3:似たような問題は、「トリアージ」が「現実的には」政治的な影響から自由ではなく、社会的に望ましくない不公平な結果を生み出すことになる、というような批判にも当てはまる。しかし、ここで彼が「トリアージ」というとき、それはある種理想的な状況を指している(というかそのように解釈するべき)はずであって、これはそのような「現実的」な問題とは、とりあえず分けるべきだろう。

*4:もちろんそうでない可能性もあるわけだが、それは一言本人に聞けばわかることだ。