ゆとり教育で、テストの点が下がって、何が悪い?


ゆとり教育の結果、学生の基礎学力が落ちているといわれるけど、なんでそのような議論の枠組みで話が進むのか不思議でしょうがない。


まず第一に、ゆとり教育のもとでテストの点が下がるのは別に不思議でもなんでもない。それが問題なら、ゆとり教育など最初からやるべきではなかったし、そもそも可能であったはずもない。戦争を始めておいて人が死んでいることに驚いている感じで、はなはだ不可解だ。もちろんもともとそれが理由で反対していたのなら、それは一貫した立場だが、賛成しておいて点数が下がったから文句を言い出すというのは考えにくい。

とすると、ゆとり教育の目的とは他にあると考えるほうが自然だろう。賛成している人たちは、テストの点が下がるというコストをかけても成し遂げたい何かがあるわけだ(と考えないと理解できない。)すると「テストの点が下がっている」というのはその人たちへの批判にならないのでますますわけが分からなくなるが、まあとりあえずそうだと仮定しておいて、すると第二に分からないのは、その「何か」が具体的な目標として設定されて、議論の対象にならないことだ。何が起きれば、ゆとり教育は成功している(いた)のか?

例えば、ゆとり教育の一つの目標として、「平均的な基礎学力を落としても、突出した非従来型のエリートを一部に生み出す」ということがあるとしよう。*1それならば、例えばイノベーションや企業家の質と量を計測するとか、特許のデータを調べるとかまあ何でもいいが、その目標が達成されたかを測るベンチマークが必要になってくる。まあ実際それが真の目標かどうかはどうでもいいが、目標が何であれ、その目標が達成されたかどうかの基準(数量化できればなお良い)をコンセンサスとして持っておくことは、議論を有意義にするための大前提だ。そして賛成派はそのベンチマークが達成されているかどうかを説明する。また反対派は、相手方(賛成派)の提示するベンチマークをもちいてすら政策は成功してないと反論したり、あるいは、そもそもそのベンチマークが正当ではないという論陣を張る(上の例で言えば、例えば、平均的学力の向上と一部の能力の高いエリートの存在の、どちらが生産性への貢献度が高いのか?という問い)..........というのが、まともにかみ合っている論戦だろう。テストの点がどうとかいうのは、末梢の話でなくちゃいけない。


何故か議論が深まらずに、なし崩しに話が進むのだ。勢いで話が進み、積み重ねられるものは何もない。賭けてもいい、これからもしどんどん景気が良くなって失業率がぐんぐん下がりだしたら、きっとこんどは「ゆとり万歳」とか言い出す人たちがたくさん現れてくるに違いないのである。

*1:Wikiを見るとこういうことは書いてなくて、生徒の負担を減らすためとかなんとか書いてあるが、とてもそんな話は信じられない。役所はそれほど馬鹿ではない。当然、生徒の負担を減らすことによる(心理的効果以外の)ベネフィットを考えているはずだ。