経済学の倫理的なインプリケーションは何か?


なにもありません。ある倫理的な基準を置いたときにある状態・政策が望ましいと言うのが経済学で、倫理自体は、経済学からは導かれず、常に外部から与えられるものなのです。


というとここで話が終わってしまうのだが、しかし経済学があたかも倫理的なインプリケーションを持つかのように振舞うことの倫理について考えることは出来る。説明はメンドクさいのでしないが、パレート効率性という概念がある。どのような倫理的基準を用いるとしても、パレート効率性が社会的に理想的な配分の満たすべき必要条件だと考えることには、まあそれほど問題はないだろう。しかし現実の世界の(非技術的な)制約のもとでは、それは必要条件にすらならない。それにもかかわらず、様々な文脈でしばしば効率性が十分条件としてー効率性が非効率性よりそれだけで優れているかのようにー語られることさえある。*1*2


ここで、何が問題になっているのか?現実の政策決定においては、政策のオプションは技術的な制約に加えて政治的な制約にさらされている。極端な場合には、それはしばしば二者択一の形式をとる。例えば2つの政策があるとしよう。政策1は(パレート)効率的であり、政策2は効率的でない。しかし、政策1のもとでは、政策2のもとより不幸になる人がいる。望ましいのはどちらの政策だろうか。答えは、「これだけではなにも言えない」、である。望ましさの必要条件を満たしていないのになぜ政策2を選択からはずせないかというと、技術的な制約のみが制約でないためだ。効率性のみで政策2を却下できるのは、政策2よりパレート優位である政策3がほかにオプションとしてある場合に限られる。ここで(技術的には可能な)政策3がオプションになっていないことが、政治的制約に当たるわけだ。この場合には、政策1が政策2より優れているという結論を自動的に導き出すことは出来ない。*3


たとえば輸入農産物への課税を取りやめたとしよう。国内の農業従事者は打撃を受けるが、生産は集約化され、より安く農産物が(おそらく海外で)生産されるようになる。ある人は農業の非効率性と補助金に憤慨して、保護政策に反対するかもしれない。しかし、である。非効率性だけでは、農業従事者を窮地に陥れることは(保護を続けることと同様に)倫理的に正当化されないのである。


効率性基準だけで何か言うには、もう一ひねり必要になる。例えば、農業従事者がより生産性の高い仕事に移ることを促すのは長期的には本人のためにいいのだ、とか、または農業従事者に特別な補助金を出すとか、あるいは課税を残すとほかの国から報復関税をかけられて(農業従事者を含めて)国民が皆窮乏する、などなど。しかしほとんどの場合、効率性基準だけから何が望ましいかを決定できることはあまりない。だから普通は経済学者はそれより強い倫理的基準を必要とするわけで、政策的主張をするにあたっては、そこのところを明らかにすることが望ましい。どのタイプの人々に(ミドルクラスとか、貧困層とか、自営業とか)よりウェイトを置いているのか、あるいは個人の同質性を仮定したマクロ的な議論をしているのか、とかそういうことだ。気持ちがいい議論とは、ここらへんをはっきりさせた議論である。経済学に倫理はなくても、経済学者は倫理的でありうるのだ。

*1:注意:「パレート効率性は平等性を考慮しない」というよく言われる話もこの十分条件に関する問題だが、ここでの話はとりあえずそれとは関係ない。前者はパレート効率的な選択肢集合の内部での話だが、ここでの話はパレート効率的な選択肢集合の外部に関する話である

*2:上の注で指摘した、パレート効率性が「公正/平等性」を扱えないこと、より一般的にはそれによってランク付け出来ない分配が存在することは、パレート効率性の概念自体に関する問題点である。一方、ここで話題にしているのは、むしろ概念の使い方に関する問題点だ。他によく指摘されるパレート効率性の使い方に関する問題としては、調整過程における摩擦的な費用を明示的に考慮しないこと、などがある。

*3:また、たとえ政策3がオプションとして選べたとしても、その場合にも政策1と政策3がパレート的に比較出来ないかもしれない。その場合、より強い倫理的基準、つまり何らかの社会厚生関数を導入することなしに、より望ましい選択肢を決定することは出来ない。