経済学帝国主義

Foundations of Human Sociality: Economic Experiments and Ethnographic Evidence from Fifteen Small-Scale Societies
経済学帝国主義なんていわれても、もう誰もピンと来ないかもしれない。Googleで検索しても、出てくるのはマルクス主義の本ばかりだろう。この言葉自体はだいぶ昔からあるが、有名になったのは、ゲーリー・ベッカーの一連の仕事が世に出た時だ。彼は、結婚、家族、犯罪、差別など、今まで経済学とは無縁であったトピックに経済学の方法論を持ち込んだ。すなわち、合理性、均衡、そして効率性だ。初めは多くの反発にあったが、最終的にはベッカーのアプローチは一定の成功を収めたといっていい。それら一連の業績に対して、1992年に彼はノーベル賞を受賞している。

ところで、よく、経済学の仮定がきつすぎて現実的ではないという話を聞く。*1で、しばしば、そういう人は経済学の「帝国主義」的な性格に苦言を呈する人たちと重なっている。これに対しては、いくつか典型的な反論がある。例えば、あえて単純な仮説にとことんこだわって考え抜くことに意味がある、という人がいる。これは、結構重要な見方だと思うけど、今は触れない。ここで言いたいのは、実は経済学のフレームはだんだんと広がっているんだよ、ということだ。合理性、均衡、効率性という三種の神器は、昔ほど文字通りに受け取られることはなくなった。効率性が達成されないことがしばしばあることはゲーム理論全盛の現代の常識だし、合理性の仮定は心理学者や実験経済学者からかなり強烈なアタックを受けている。*2

そういえば、すこし前、Herb Gintis*3セミナーに行ってきた。そのセミナーはとてもInterdisciplinaryなもので、彼は、経済学者以外のオーディエンスに、彼のAER(2001)の論文とその関連論文について話をした。*4その論文で彼は、数人の経済学者と10数人の人類学者の助けを借りて、世界中の様々な小規模な社会ー農耕民族から遊牧民族・狩猟民族までーで実験を行っている。*5普通実験の被験者として使われるのは先進国の大学生がほとんどだが*6、その結果がほかの全然関係ない社会でも当てはまるか確かめてみようとしたわけだ。

彼が実験で使ったのは、Ultimatum Game(最後通牒ゲーム?)などの有名なゲーム。簡単にUGのルールを説明すると、まず一人の人にそれぞれの土地で1日か2日の所得にあたる金額を渡す。次に彼が、そのうちのいくらかをもう1人の人にオファーする。この人は、オファーを断るか、受けるかを決める。断った場合は2人とも何ももらえないが、オファーを受けた場合はオファーのとおりに金額が分配される。一人一人は自分が誰とゲームをしているか知らないし、同じ2人の間でこのゲームは一回しか行われない。つまり後で報復する余地は全くない。

ここで、合理的なプレーヤーを仮定するとどうなるか?標準的な解では、最初の人が「全部俺が取るよ」と言って*7、そのオファーが通ることになる。どんなオファーでも受けなきゃ損だし、最初にオファーする人はそれを見越して最大限に自分の取り分を増やそうとするはずだから。さて、実際はどうなったか。もちろん、普通の人なら予想がつくように、そうはならない。ほとんどの社会では、オファーはより「公平」で、「相手に優しい」ものになった。ただし社会によってオファーされる平均の量は20%から50%まで幅があるが。*8つまり、(1)通常の大学生を使った実験と同じように、実際の行動が理論の予想から外れている、(2)がしかし、その外れ方は社会の構造に依存してだいぶ異なるので、一つの社会の結果を他に当てはめるのは難しい、ということがいえる。

でその後は、彼の持論の非利己的選好とInstitutionの重要性という話しでまとめるわけだが、その結論の妥当性はおいておく。この話のおちはそこではなくて、経済学者以外に向けられたその日の話のトーンが、上で述べた経済学批判(これは経済のジャーナルに乗った論文のまとめ)とは微妙にずれていたことにある。そんな経済学批判は、経済学者以外のオーディエンスにとっては耳にたこができるくらい聞かされていることだということもあるだろう。彼が強調したのは、このメソッド、つまり実験を通じて色々な社会の行動規範を測定して分類していくことによって、人間の行動への統一的なアプローチが可能になるかも、ということだった。*9これは、社会科学一般への挑発に他ならない。もちろんすかさず会場から(政治/経済学者だった)、「そんな単純な道具で社会が分析できるのか」、みたいな反論があった。軽い議論の応酬の後、彼は、まあこれでうまくいくところも結構あるでしょ、という感じで話を濁していたが、社会を分析する統一的な枠組みへの情熱を隠そうとはしなかった。そこに僕は、ちょっとだけ、共感した。*10

経済学は「帝国主義的」ってよく批判されるけど、僕は、もっと「帝国主義」でもいいのでは、と思う。社会学でも、法学でも、政治学でも、歴史学でも、どんどん「経済学的」にアプローチしていけばいい。なんか馬鹿な主張が出てくるかもしれないが、そうしたら、その分野の人に突っ込んでもらえばよい。内省して身の程をわきまえて黙っているよりも、とにかくまずアイデアを出して対話している方がよっぽど生産的だ。それに、色々な対象を相手にしているうちに、「帝国」と思われているものの内実も変わっていくのだから。

合理性とかの概念も、建設的に批判されるうちに、より柔軟なものになりつつある。そしてその過程で、経済学は今まで説明できなったことを説明できるようになっていく。経済学の「帝国主義」を恐れて経済学の偏狭な仮定を批判する人は、皮肉なことに、敵に塩を送っているのだ。*11

*1:実は結構多くの経済学者もそう思っている。

*2:ただし、ある程度非合理な行動もある種の最適化問題に帰着させるのが普通である。そのような広い意味での合理性=最適化の枠組みは未だに99%で仮定されているし、これからも残る(べき)だろう。一方、均衡の概念は未だにパワフルであり、全く勢いの衰えを見せない。

*3:著名な経済学者。そういえば、ラディカル・エコノミックスというのも昔あった。本人曰く、「元マルキスト」だそうだ。

*4:その集大成が、上の本「Foundation of Human Societies: Economic Experiments and Ethnographic Evidence from Fifteen Small-Scale Societies」。

*5:実験自体も、あるいは社会ごとに下の注で述べたような解釈を得ることも、人類学者の協力なしには難しいだろう。これは、経済学者と人類学者のコラボレーションとしてはうまくいっている例だと思う。ちなみにこの実験の関連論文は、人類学のジャーナルにも載った。

*6:なぜかというと、経済の実験では実際に金銭的なインセンティヴを与えなくてはいけないが、その点大学生は安い金で雇えるから。

*7:あるいは、「1円だけやるよ」、と言った方がわかりやすいかも。

*8:ほとんどの場所ではオファーは30%から40%ぐらいだが、一つだけ、平均で50%以上をオファーする社会がインドネシアにあった(で、それでも結構断られている。)。実はこの部族では鯨が生活の糧になっていて、猟では多数の人々が一致して協力する必要があるため、利己的な行動を過剰につつしむようなカルチャーが発展しているらしい。また、捕った鯨はできるだけ早く分解する必要があるため、なるべく不必要な対立を避けることが求められる。そのため、どの部位がどこの家族に行くかというのが前もって決められているそうだ(彼はその図面を見せてくれた)。

*9:どうやら彼は、進化論的なモデルを基にして、行動(選好)と社会構造の共進化を統一的に説明しようと考えているようだ。新しい三種の神器は、ゲーム理論、実験、進化論という感じか。

*10:彼の見解そのものを支持するわけではないが。

*11:もっと言えば、このほうが昔の強引な「帝国主義」よりも、もっと強力な「帝国主義」だろう。より柔軟に、他の学問(主に心理学)の成果も取り入れて、相手に受容されやすい形で発展するのだから。そうすると、「帝国主義」というのは余りいい呼び方じゃないのかもしれない。