馬場辰猪の墓


フィラデルフィアの中心街は意外に小さく、2〜3日あればかなりいろいろな名所を回ることができる。だから、フィラデルフィアを訪れるとき、市街からSchuylkill川を渡ったところにあるペンシルバニア大学を訪れる人は多分たくさんいるだろう。しかし、そのすぐ側に、明治時代の自由民権家が葬られていることを知っている人はどれだけいるだろうか?実は自分もこのことを知らず、つい最近その墓を訪ねてみた。

馬場辰猪が葬られているWoodland墓地は、大学の南西にある。38th通りを南に下り、Spruce通りを過ぎた後、Woodland Avenueを西に向かって右折すると、墓地の正門にたどり着いた。以外に墓地は広く、どこに墓があるのか、まったく見当がつかない。最初は適当に歩き回っていたのだが、やがて途方にくれ、墓地の事務所を訪ねることにした。

事務所に行くと、二人の黒人の女性が、陽気に迎えてくれた。「Babaという日本人の墓を知っているか」と聞くと、ちょっと待ってくれといって、一人が奥に消えていった。もう一人の方に「家族の方?」と聞かれたので、「いや、彼は歴史的な日本人なのでちょっと興味があって」などと答える。

馬場辰猪の伝記を書いた萩原延尋の著書、「自由の精神」(ISBN:4622070588) のなかで、馬場辰猪の墓が見つからなくて途方にくれているときに、芝刈り人に場所を教えてもらうエピソードがある。その芝刈り人が言うには、日本人の墓は一つしかなくて、そこに一年に何人か参拝に来るのだという。しかし、僕の前にいる彼女達には、馬場辰猪のことを知っている様子は全くない。もう当時とは違って、誰も訪れる人はいなくなってしまったのだろうか?

「彼はどんな人なの?」

「100年以上前の、日本のLiberalist。アメリカに亡命してきたんだ。」

「ふーん。」

などとやり取りしている間に、オフィスの片隅に、埋葬されている有名人のリストを見つけた。もしやと思ってみると、そこに馬場辰猪の名前を見つけることができた。ちゃんと、自由党創始者の一人と書いてある。そのリストの中では、彼は確かに唯一の日本人だった。そこから墓の場所もすぐに分かったのだが、そのときちょうど奥から、受付の女性が資料を持って戻ってきた。彼女は、親切にも、墓の場所を示す地図だけでなく、墓に関する資料のコピーを持ってきてくれた。それは小さなカードで、墓の図面が記されており、永久に墓を保全するための支払いが1897年になされたことを示すものだった。

と、そのカードの上にあるサインに目を引かれる。「Hisaya Iwasaki」と美しい筆記体でサインされている。これは、岩崎財閥(三菱)3代目の岩崎久弥のものに違いない。*1岩崎は当時ペンシルバニア大学の留学生であり、馬場がペンシルバニア大学病院に入院して後1888年に息を引き取るまで、林民雄などとともにその病床をしばしば訪れていた。萩原延尋によると、


...馬場がまだのこっている武具の類を売却して、死後の費用にあててくれるように依頼したのは、この頃のことであろう。(「馬場辰猪」(ISBN:4122023386))
とあるが、岩崎は確かに馬場の死後その約束を果たしたわけだ。ただし、武具を売却しても、せいぜい墓自体の費用ほどしかまかなえなかったのではないか。(誰が墓を立てる面倒を見たかは知られていないが、恐らく岩崎だろう)。死後9年たっていることから考えても、この永久保全の費用は、岩崎の懐から出たものと思われる。

とにかく、墓の場所が分かったので、二人にお礼を言って事務所を後にし、一度墓地の正門まで戻ってみる。そこからすぐ左の方へずんずん行くと、この墓地で一番大きなオベリスク形の墓*2の前に出る。そこに立って、墓地の中心部を振り返って眺めてみると、一つだけ、周りを笹に囲まれた小さなオベリスクを見つけることができる。それが、馬場辰猪の墓だ。この墓を模した馬場の墓が谷中墓地にあるのだが、それを見たことがある方は、上の写真と見くらべて見ると面白いかもしれない。

墓の前面には、「大日本馬場辰猪之墓」とある。きちんときれいに保存されているようだ。ちょっとびっくりしたのは、墓の敷地内に、1889年に亡くなったアメリカ人の兄弟の墓があることだ。彼らは馬場と何か関係があるのだろうか?それとも、適当にそこに葬られてしまったのだろうか。もしかしたら、これを見て、岩崎は墓の永久保全を申し込んだのかもしれない、としばし考えてみた。

(続く)

*1:かの有名な湯島の岩崎低は、彼の私邸である。3年ほど前から一般に公開されているということだ。

*2:ペンシルバニア大学のMedical Schoolの創設者の墓