私小説 from left to right/水村美苗

私小説 from left to right (新潮文庫)

NYの紀伊国屋にふらりと立ち寄ると、この本が文庫本の棚に何冊も立てかけてあるのを見つけた。これは、家族の都合で渡米した後、20年間も日本を懐かしみつつ無為に過ごしてしまった「美苗」が、過去を振り返りそして日本に帰ることを決断する1日の物語である。日本に帰ったときはそれほど見かけなかったのだが、やはりNYに、いやアメリカに住む日本人にはなにか身のつまされるものがあるのだろうか。

在米期間が長いこともあり、この本を読むとどうしても私小説としての内容、つまり他人事とは思えない彼女の「経験」に関心が言ってしまうのだが、実はそれに劣らず、いやむしろより面白いのは、この本の形式である。巷ではBilingual小説とも呼ばれているようだが、この本は日本語と英語が横書きで共存するといった形で書かれているのだ。

英語も日本語もともに言語ではあるのだが、その関係は対称的なものではない。現在の世界で、英語で書く、あるいは情報を発信することができることが、いかに大きな特権であるかということは、強調してもし過ぎることはない。英語はものすごい勢いでユニバーサルな言語になりつつある。ちなみに付け加えるなら、この傾向が顕著になったのはそう昔のことではない。ところがその一方で、日本語はローカルの極みの様な言語である。それは、広大なマンハッタンにポツンとある紀伊国屋のようなものだ。

このような状態を目にして、日本の作家はこういうかもしれない。「日本語だろうがなんだろうが、大事なことはいいものを書くことだ。そうすればそれはやがて翻訳されて、世界中の人に読まれることになる。」正しいと思うのだが、ここにあるのはナイーブと言っていいほどのコンテントの偏重と完全な翻訳可能性の前提である。もう一つ言えば、これ自体が英語をユニバーサルな言語とする発想そのものと密接に関連している。

さて、水村美苗がやったことは、このやり方を完全にひっくり返すことである。つまり、彼女は(1)内容よりも形式にこだわることで、(2)英語の優越性に異議申し立てをし、かつ、(3)グローバルな文学を創造するというアクロバットをやってのけたのだ。まずすぐ気づくことは、この小説は、まさにそれが日本語と英語で書かれてあるということによって、英語に翻訳されることを拒否している。もし、日本語の部分を英語に訳したら、それはBilingual小説ではなくなってしまうからだ。しかしより痛快で面白いのは、この本は英語以外のあらゆる言語に翻訳することができる、ということだ。ただ、日本語の部分をローカルな言語で置き換えて、英語の部分はそのままにしておけばよい。彼女は、英語への翻訳を拒否しつつ、かつそれがそのままグローバルな文学に直結するというような可能性を、身をもって提示してみせているのだ。

この本の中で、主人公=作者が密かに下さなければならなかった決断は、日本に帰るべきかどうかということよりむしろ、英語の作家になるか、あるいは日本語の作家になるかという決断だった。彼女は後者を選んだわけだが、似たような境遇にある人々は世界中にいる。この本は、英語が覇権を握る世界の真っ只中でローカルの言語で書くことを意識的に選んだ人々へのメッセージとしても読むことができるだろう。