全体最適、オレ様最適、そしてガキデカ民主主義について


最初は、題名からすると個人合理性と社会合理性の話なのかなと思ったんだけどね。読んでいるうちに、これはなんだか違う世界の話を見ているようだと。


まず、会話してる、しかも議論しているところで「全体最適」を適用するのが不自然だというところでいきなり分からなくなる。例えば税金の話をしていて、そこで文字通り「オレ様最適」を適用するとしたらオレの税金をゼロにすべきという主張になりかねないが、それじゃ議論にならないわけで、そんな主張をする奴はどこの国に行ってもいない。会話をする場合は、少なくとも建て前としては何かの原則に基づいた(つまり何らかの意味で「全体最適」な)議論をするのが自然だ。


もちろんこれは、内面では「一番自然なのは明らかに「オレ様最適」」ということに矛盾しない。むしろ、僕からすれば(そして経済学者一般からしても)「オレ様最適」というのはわざわざ断ることのない自明な条件、ある種デフォルトのしての見方に他ならない。


などと考えていると、ここでようやく建て前としての全体最適と内面としてのオレ様最適というこっちの思考のフレームワークの外で話が進んでいることに気がついた。id:Chikirinさんは、建て前のレベルはすっ飛ばして、この友達の内面が実際に「全体最適が90%で出来てます」というとこから話を始めているわけだ。ここでこちらは驚いてしまう。このような内面の存在を大勢の人間がわずか数行のうちに自然と受容してしまうことについて。そして、「「オレ様最適」は自然なんだよ」と読者に断らなければならないことについて。なるほど、こちらがデフォルトならば経済学は受けないはずだ。


そう分かって読むと、あとはじゃあそれが何故なのという話になってすらすらと読めたわけだが、読み終わった後ある古い話を思い出した。それは鶴見俊輔の「ガキデカ民主主義」だ。戦時中に頭の中が「全体最適」(お国のため)で一色になった日本人を見てきた鶴見からすれば、色と金、私利私欲の亡者のガキデカは、新しい日本人の自画像として肯定すべき対象だったわけだ(解毒剤として、だと思うが)。これはもう古い話で最近の人には関係ないものと思っていたが、ひょっとしたら「ガキデカ民主主義」の意義はまだ失われていないのかもしれない。


追記:id:Chikirinさんは、実は最後の説明(3)を一番押しているらしいです。(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090419)。これは、実は「全体最適」は建て前で「オレ様最適」なんじゃないのという比較的自然な説明に近いので、一番違和感がないですね。ただまだひっかかることもあって、何かというと、読んだ感じでは「全体最適」な分配がユニークに与えられているような感じがしますが、理論的には「全体最適」はいくつもありえるわけで、そこから常に自分にとってベストなものを選ぶことはどの立場の人であっても出来るわけです。だからこれは現実には特定の「全体最適」が何らかの理由で政治的な正当性をもっている(だからそれを好まない人がいる)ことがバックグラウンドにあると解釈したのですが、どうでしょうかね。いずれにせよ、(1)や(2)のような人が大勢でないらしいことに安心しました。