自分を基準にして読むこと


自分の血肉になる本の読み方というのも、これに似たような話だ。だいぶ長い間、少なくとも大学受験のしばらく後までは、本を読むことというのは、本に書いてある「正しいこと」を自分の頭の中にコピーする作業だと考えていた。


いや、当時実際そうかと聞かれたら、きっとそうだとは答えなかったに違いない。自分は主体的に本を読んでるふりが出来るぐらいには、物分りのいい学生だったような気がする。しかしもちろん、頭でわかっていることと実際にできることの間には大きな溝があるのだ。本がしっかり読めるようになるのは、自転車に乗れるようになるようなものかもしれない。乗れるようになって初めて、それまでの自分が全く分かっていなかったことに気づくのだ。


話がそれたが、とにかく最初はそのように考えていた。しかし、いつの頃からか、読み方が変わってきたことを覚えている。もっと自分の都合で本を読むようになってきたのだ。例えば、このようなことを考えるようになった:(1)自分で重要じゃないと判断したところは読みとばしてかまわない、(2)本に書いてあることはしばしば間違っている、あるいは最も効果的に書かれていない、だから(3)もっとうまい考え方や書き方があるかもしれない、などなど。ちょっと極端に聞こえるかもしれないが、これぐらい極端だからこそ薬になったんだと思う。


何でこうなったかは、覚えていない。ただ明らかなのは、こちらの読み方のほうが圧倒的に使えることだ。むかし、小難しい哲学的な本の翻訳を何度も読んだのに何が議論のポイントなのかさっぱり分からず、自分は馬鹿だから分からないんだ、とあきらめていたら、あとで原書を見てみるととても簡単な話だったということがあった。当時読んでいたときは、そのことにすぐに気がつかず、時間を無駄にしていたわけだ。ひょっとしたら、こんな経験の積み重ねが自分の読み方を変えたのかもしれない。


しかし、習慣を変えるというのは一朝一夕にはいかないものだ。本には「正しいこと」が書いてあるという考えの呪縛は、なかなか人を自由にしてはくれない。僕に関していえば、大体の書物に関しては上のような態度で臨むようになった後も、「文学」にだけは例外を設けていることに気がついた。「文学」の読み方に正解はない、という建て前(そしてそれは正しい)が、批評的なものの見方を曇らしてしまうのだろうか?しかしもちろん、「文学」も例外ではないのである。