死刑は殺人を抑止するか?


つい先日、よく名前の知られている某殺人犯の死刑が執行された。それに最近死刑が頻繁に行われることもあって、死刑に関する話題がよくメディアに取り上げられている。来年から裁判員制度が導入されることもあり、一人一人が死刑制度について考える機会が多くなってきたのかもしれない。どう考えればいいか途方にくれる人もいるだろう。いろいろと話すべきことはあるが、ここでは死刑の抑止力とそれをめぐるある論争についてちょっとメモしておこうと思う。


応報論者ならば死刑に賛成するのは自然だろうが、僕は応報論者ではない。しかしもしも死刑が十分に殺人を抑止する力があるならば、僕は死刑を肯定するかもしれない。1人の殺人犯が殺されることで10人の殺人犯でない人間の命が確実に救われるとすれば、これは死刑を支持するかなり強力な議論になるだろう。逆に死刑に殺人の抑止力が認められない場合は、死刑制度の様々な問題点を考えれば、死刑を肯定することはありえない。だから、僕はベッカーの次のような発言に共感する。

私が殺人犯に死刑を適用することを支持する理由、ほんとうに唯一の理由は、それが殺人を抑止すると信じるからだ。もし信じていなければ、私は死刑制度に反対しているだろう。(ポズナーの挙げている)復讐やその他もろもろの動機を社会政策の基礎に置くべきではない。」(http://www.bepress.com/ev/vol3/iss3/art4/)


でその後彼は、Ehrlich(1975)の有名な論文を引用して、死刑の抑止力はあるのだと議論するのだが、実は最近Donohue and Wolfers(2006)が(Donohueはイェール大学のロースクールの教授で、中絶と犯罪の逆相関の論文をレーヴィットと書いた人)、この論文や、より最近の論文(Dezhbakhsh, Rubin, Shepherd (2003)など)を徹底的に批判しているようなのだ。彼らによると、推定結果が変数や関数形の選択に頑健でないし、操作変数の選択はダメダメだし、データを取ってくる期間を都合のいいように選んでいるし、などともう完全なダメだしである。そもそも、死刑の抑止力を信用できる精度で有意に感知するほど、十分にデータが充実してないのだ。


これに関するDonohueとRubinの論戦が、ここここ(Economist’s Voice)で見物できるが、このまとめ的なやりとりを見ていると、Rubinが劣勢にたたされて言い訳しているだけのように僕には見える。自分で元論文を読んだわけではないのだけど。


翻って日本のことを考えてみると、アメリカでもこうなのだから、日本で死刑の抑止力がデータから立証されることは、これまでもこれからもありえない。アメリカですらデータが十分でないということならば、データの数が一桁違う日本ではいわずもがなだ。鳩山法相がちょっと死刑の数を増やしたぐらいでは、もちろん何も変わらない。*1,*2


もちろん死刑に抑止力があるという仮説が棄却されたからといって、死刑に抑止力がないことが示されたわけではない。データが不足しているのでどうしても何か確定的にいうのは難しい。すると最終的には死刑の抑止力のロジックをどれだけ信用するかが重要になってくる。個人的には、そのロジックはある程度説得的だと認めることにやぶさかではない。ないのだが、ここで詳述してない他の要素(冤罪、人権etc.)を考え合わせると、僕は死刑肯定側によりしっかりした立証の責任を求めざるを得ないのである。

*1:というか、実は70年代以前のほうが死刑の数は圧倒的に多いのだが。

*2:ところで、ここでアメリカにおける死刑の抑止力と日本のそれとでは微妙に意味が違うことを言っておくべきだろう。アメリカでは死刑の抑止力は潜在的な殺人者への抑止力だ。死刑を免れた場合に、その殺人犯の当人がまた殺人を犯す可能性は考慮していない。終身刑があるからだ。一方で日本の場合には、死刑にされなければいずれ仮釈放されるので、死刑による直接的な抑止の可能性が残されている。ただし仮釈放中の人間がまた殺人を起こしたという話は余り聞かないし、これについてもデータが少なすぎて何か確定的に言うことは難しいだろう。