Crash (クラッシュ)


“It's the sense of touch. In any real city, you walk, you know? You brush past people, people bump into you. In L.A., nobody touches you. We're always behind this metal and glass. I think we miss that touch so much, that we crash into each other, just so we can feel something.” - opening scene in Crash.


「アカデミーはブロークバック・マウンテンを無視しやがった」という怒号もそろそろ消えかけている今日この頃、「Crash」を見に行ってきた。良い映画である。お題は、人種間の軋轢だ。


LAは、この手の映画には格好の舞台になっている。ただいろいろな人種がいる都会というだけでは、十分じゃないのだ。LAは、メルティング・ポットという言葉が当てはまるには、クールすぎる街だ。クールすぎるというのは、上のオープニングの台詞のような意味でである。人がいっぱいいるはずなのに、だだっ広いから、誰にも、道端で会うことがない。NYならば、アパートを出ればすぐにあるあの人込みが、ない。どこへ行くにも車だ。都会の孤独とよく言うが、LAはもっとも洗練された意味でそうなのだ。当然、自分が会いたい人間だけに会うような生活を送りがちになる。黒人に会いたくなければ、そのような地区へ行かなければいい。やろうと思えば、自分で簡単に壁が作れる。だからLAは、人種間のディスコミュニケーション、さらにはディスコミュニケーション一般を象徴する都市なのだ。


さて、この映画は、複数のキャラクターが入り乱れた群像劇になっている。「マグノリア」を想像してもらえばいいだろう。*1一人一人の、元は全く接点のなかった人々の生活が、僅か2日の間に交錯(クラッシュ)し、人種を主題にしたひとつの物語を編み上げていく。「レストランのサービスが悪い、黒人はチップを払わないって偏見をもっている」、と毒づく黒人。*2英語が下手で、常にトラブルに巻き込まれて怒り出すペルシア人。黒人の車を止めて、セクハラ捜査をする白人の警察官などなど。*3彼らの生活が(違う人種の)他人の生活とクラッシュすることで、様々な問題が積み上げられていき、一触即発のぎりぎりの状態まで追い込まれていく。


それが、映画の最後にきて、偶然としかいいようのない出来事を通じて、一気にひっくり返る。それはある種の「奇跡」である。あるいは、マグノリアの蛙だ。ある場合には、そこまで最大限に高まっていたテンションが、風船の空気が抜けるかのように、消えてしまう。例えば、差別的だと思われていたある男が、思わずそれと正反対の行動をとる。その一方で、一番まともで良心的に見える人が、取り返しのつかない過ちを犯してしまう。


何故、「奇跡」なのか? この映画が、クリスマスの時期を舞台にしていることに気がついただろうか。実はこの映画は、一風変わったクリスマス・ストーリーになっている。よく見ていれば、その手のオブジェ(サンタなど)が、随所に顔を出していることがわかる。そして、最後のシーンでは雪が降っているじゃないか。


ご存知だろうか? LAで雪が降るのは、蛙が降ってくることよりも珍しいのだ。

*1:しかしマグノリアには遥かに及ばない。マグノリアにオスカーをあげたかった。しかしあの年は、アメリカン・ビューティがあったんだっけ。

*2:その後に、「で、お前いくらチップ払ったの?」と聞かれて、「あんなサービスに払えるかよ。」というのには笑えるが。

*3:この映画は一部で評判が悪いのだが、その理由のひとつが、模写が極端でややステレオティピカルなところだ。ビバリーヒルズに住んでらっしゃる映画関係者は現実のマイノリティのことをなにも分かっていない、という批判を良く見かける。これはまあ、少しは当たっているかもしれない。しかし個人的により気になるのは、アジア人のステレオタイプが、脇役でしかないところだ。アジア人の内面はほとんど描かれることがない。LAはアジア人が最も多い地域であり、この映画が人種についての寓話なのにも関わらず、だ。アジア人は、いまだ内面を持ったステレオタイプになることすら難しいのである。