.... of the Spotless Mind(エターナル・サンシャイン)


Joel(Jim Carrey)とClementine(Kate Winslet)は恋人同士。しかし最近は2人の中は険悪だ。ある日Clementineに会うと、なぜかJoelにまったく気づかない様子。それもそのはず、ClementineはDr.Mierzwaik (Tom Wilkinson)の発明した記憶消去装置で、二人の関係の記憶を消してしまったのだ。それを知ったJoelは、自分もClementineとの苦い思い出を消してしまおうと決心する。しかし、いざ記憶が消され始めると、(心の中で)Joelは後悔し始める。忘れたくない日々の思い出があることに気づき、記憶が消去されることを(心の中で)防ごうとするのだが...




(注意! 以下は、ネタバレを最小限にして感想を書いています。まったく映画を見るのに影響はないと思いますが、責任は取りません)。


映画の途中で、記憶消去装置が働きだした後は、映画の視点は脳内のJoelに移る (実際にはここらへんの時系列はもっとトリッキーなのだが、ネタバレっぽくなるので省略)。 心の中でJoelが記憶消去装置の手を逃れようと自分の記憶のなかを行ったり来たりするのが、一番Kaufmanっぽいところだ。

この映画がうまいと思うのは、このKaufmanっぽいトリックが、前の二作にくらべて、映画的な感動を呼び起こすのに成功しているところだろう。前の二作品ではKaufmanの脚本の奇抜さが先行している印象を受けたが、今回はそれほど奇抜さは感じられず、そのトリックが恋愛映画の道具立てとしてきちんと働いている。 これはただ単に僕の勝手な思い込みではないと思う (LAtimesの評論家KennethTuranも似たようなことを言っていた)。

記憶消去装置とは良く考えたものだ。もちろんアイデア自身はある種凡庸なSF的発想にすぎない。(記憶を自分で取捨選択するのは誰でも普通にやっている。 それを極端にしてみせたわけ) むしろ感心するのは、そのアイデアが恋愛映画における伝統的な機能をきちんと果たしているところなのだ。

例えば、

1. 恋愛には障害がないといけない。しかもその障害は高ければ高ければよい。ここでは、記憶消去装置がその障害の役目を果たし、それに対してJoelは脳内で勝ち目のない反抗を試みている。(しかもこれは、現実の自分自身が全部前もってお膳立てしたこと!)。

2. 記憶が消えてしまうということは、恋愛映画における死別と似たような効果をもっている。JoelがClementineを二度と思い出さなくなるというのは、Joelが死ぬことに対応している。 それどころかこの場合はClementineもJoelを思い出すことはないのだから、ある意味もっと悲劇的といえるかもしれない。

このような効果を普通の道具立てのみで出そうとするとどうなるか? 20年前ならいざしらず、とたんに映画はくさいメロドラマに変わってしまうだろう。恋愛の障害が外部に置かれていれば、あるいは恋人が本当に死んでしまえば、この映画の繊細さは失われてしまうに違いない。記憶消去装置は、恋愛映画を現在において語るための効果的なガジットとして働いているのだ.

さて、最後にJoelは記憶消去装置に”勝つ”のか?それは劇場公開までのお楽しみ。意見は分かれるかもしれないけれど、僕は結末は「HappyEnd」に一票。